本当に不可解な点が多すぎる。
ますますなぞは深まるばかりですね。
682年、阿史那伏念の残党を集めた骨咄禄(Qutluq : クトゥルク)がチョガイ山で挙兵した。骨咄禄(qutluq)は頡利可汗の遠縁のもので姓は同じく阿史那氏であった。代々、トドン・チュル(吐屯啜)であった。そして自ら立って可汗と称し、弟の黙啜をšad(シャド : 殺)に、咄悉匐を葉護(Yabghu : ヤブク)にした。唐の単于都護府管内の阿史徳元珍はある事件に連座して突厥の降戸部落の監督を免じられていたが、部衆を率いて、Qutluqに降った。Qutluqは、阿史徳元珍を阿波達干(Apa Tarqan : アパ・タルカン)として報いた。突厥は単于都護府の北辺に侵攻し、嵐州刺史の王徳茂を斬った。また、定州にも侵攻したが、北平の李元軌に撃退された。べつに単于都護府を攻め、司馬の張行師を斬り、蔚州の刺史の李思倹を斬り、豊州都督の崔知辯を捕らえた。右武衛将軍の程務挺を単于道安撫大使として東突厥に備えた。
686年、左玉鈐衛中郎将の淳于処平が陽曲道総管となり、東突厥を討つべく出陣したが、忻州で大敗した。また、天官尚書の韋待価を燕然道大総管に任じて東突厥を討伐させた。
687年、東突厥は昌平に侵攻した。唐はそれに対して、左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が出撃し撃退した。また、黒歯常之は朔州に侵入した東突厥と黄花堆で戦い、東突厥を大いに破った。右監門衛中郎将の爨宝璧も東突厥を追撃したが大敗した。爨宝璧は則天武后によって処刑された。
690年、東突厥では骨咄禄が死去した。唐では、則天武后が即位し周を興した。東突厥では骨咄禄のあとを弟の黙啜が可汗となり、カパガン・カガン(Qapaghan Qaghan)と称した。黙啜は霊州に侵攻した。周は薛懐義、李昭徳、蘇味道、契苾明、王孝傑、李多祚、陳令英、田揚名ら18将軍に討伐を命じたが、東突厥軍と交戦はできなかった。
695年、伏帝匐(移建頡利発 :Irkin Iltäbär)がウイグルの首長となった。
696年、伏帝匐(移建頡利発 : Irkin Iltäbär)は唐を助けて、黙啜を攻めた。
同年、契丹の李尽忠が周に対して叛乱を起こした際には、黙啜は周に河曲の突厥の降戸の返還を条件に李尽忠討伐を願い出たので、則天武后は喜び、左衛大将軍、帰国公に任じ、左豹韜衛将軍の閻知微を派遣して国書を与えて黙啜を遷善可汗とした。黙啜は契丹の李尽忠を討伐し、同じく契丹の指導者であった孫万栄の妻子などを手に入れた。そのため契丹は衰退した。則天武后はその黙啜の功績を称え、再び閻知微を勅使として派遣し、黙啜に特進の称号と、頡跌利施(Il Tiriš : イル・ティリシュ : 国人集めの意味)大単于立功報国可汗とすることにした。契丹を併合した東突厥はますます強大となった。
698年、黙啜は書状をもって、則天武后の子となりたいと願い、娘を皇族と縁組させたいと願った。さらに河曲六州(豊州、勝州、霊州、夏州、朔州、代州)の突厥の降戸の返還や種粟十万石、農機具3千点、鉄数万斤などを望んだ。則天武后や宰相の李嶠もまた許さなかった。黙啜は使節として東突厥に来ていた司賓卿の田帰道らを拘束した。そのため、仕方なくそれらのものを与えた。そのため、東突厥はさらに強大となった。また、同年、黙啜は娘の婿に則天武后の一族の武延秀がなったことに異を唱え、自分は唐の皇族に嫁がせたいと願っていたが、則天武后がその唐を奪った事実は問題である。唐の子孫は二人しか残っていないそうだが、我々はその方らを唐皇帝に立てなくてはならないと主張し、武延秀を拘禁して、黙啜は十万騎を率いて南下し、静難、平狄、清夷などの軍鎮を攻撃し、静難軍使の慕容玄崱は五千の兵とともに降伏した。周は計45万の兵で防いだが、各所で敗れた。則天武后は唐の中宗を皇太子とした。そのことを聞いた黙啜は揚々と引き上げた。東突厥は強勢となり、土地は東西南北一万里となり、北方の諸族はそれに従った。黙啜は弟の咄悉匐を左察(注 : 察 : šad)、兄の骨咄禄の子の黙矩を右察とし、各々2万の兵を率いさせた。また、子の匐倶は小可汗として位は両察の上とし、処木昆ら十姓(西突厥)の兵4万を指揮させ、拓西可汗とよばせた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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